いつもなら心地良い沈黙を、こんな風に気不味く感じてしまうのは自分のせいなのだろうか…。
ハジはじっと黙り込んだまま、小夜を振りかえる事無く真っ直ぐに前を見ている。
 
ハジ…怒ってる?
 
小夜は縋る様な気持ちで隣に寄り添うハジの横顔を見上げた。
 
 
 
Love  Love  Love  * 後篇
 
 
 
彼の背後に広がる暗い夜空。
冬の澄んだ空気に瞬く都会の星は沖縄の夜空の様に明るくはないけれど、変わらず小夜を見守ってくれている様な安心感を与えてくれた。
 
生まれ育った沖縄を離れたのは大学進学の為だった。
わざわざ実家を離れて県外の大学に進学を決めたのは、社会に出る前に一度は一人暮らしを経験しておいた方が良いと思ったからだ。男手一つで自分達を育ててくれた父にますます負担を掛けてしまうけれど、若いうちに世間の厳しさを知り苦労しておくのは悪い事ではないと、父は意外にもすんなりとそれを認めてくれた。
しかし世間の風は小夜の予想を上回る厳しさで…。
実家の居酒屋が人手に渡り、下宿は火事で全焼し、この数カ月は本当に色々な事があった。
そして…まさか、こんな…一生に関わる様な出会いが待っているとは小夜自身も思ってもみなかった。
ハジは強引な様で、しかしその態度は少しも押しつけがましくはなく…もっと警戒しなくてはいけないと思うのに、ハジの親切を小夜はすんなりと受け入れてしまった。
本来なら地元に戻って働かなくてはならない様な状況であるにもかかわらず、自分が今もまだこうして大学での勉強を続けていられるのは傍らの青年が自分の事を守ってくれているからだ。
一時連絡の取れなかった父とも再会を果たし、学費の心配もひとまず消えたとはいえ…小夜が何とか生活していけるのはハジのお陰に他ならない。例えば、学費の心配がなくなったとしても、独り暮らしの家賃や食費、光熱費…その他様々な費用を授業の合間のアルバイトだけで捻出するのは難しい。
それに『自分は独りではない』と思える事が小夜にとってはどれだけ心強かった事か…。
小夜は彼のマンションに転がり込む様な形で、今では当然の様に同じ部屋で寝起きしている。
傍目にはこういう生活を同棲と言うのかも知れない。しかしそれは結果がそうであったと言うだけの話で…初めから惹かれ合っていたのは事実だけれど、最初からこうなろうと言う下心がお互いにあった訳ではない。
十も年齢の離れたハジにとって、自分が対等な恋愛対象に映っているとは…小夜にはとても思えなかった。
思えなかったけれど、離れ難い気持ちは誤魔化し様も無かった。
ハジには…もどかしいほど大切にして貰った…いや…今も大切にして貰っている。
深い感謝と愛情を抑えきれなくなって、小夜は先程からずっと黙ったままのハジの横顔をじっと見詰めた。
 
通った鼻梁、長い睫、形の良い輪郭を縁取る美しい黒髪…。
そして、真っ青に澄んだ空の様な青い瞳。
小夜の好きな…その優しい青い瞳。
 
ハジ…好き…よ。
 
じっと見詰められる気配に、ハジが僅かに小夜を覗き込んだ。
「…小夜。寒くはありませんか?」
口数は決して多くはないけれど、彼の言葉には確かな優しさがある。
 
『ハジの言う事は何だって頭から信じるのに?』
 
ソロモンはそんな風に言ったけれど…。
ハジの言葉にはきちんと行動が伴っていて…何よりも常に小夜の事を労わってくれているのが解かる。
小夜にとって、ハジの言葉は最初から何かが違ったのだ。
困ったところを助けてもらったから?
それが彼の言う刷り込みと言うものなのだろうか…?
それでも、ハジと出会ってからの数か月…二人で過ごした時間に嘘はない。
積み上げてきた信頼は確かなものの筈だった。
 
「…うん」
ハジの静かな問いに小さく返事を返して、頷く。
少しだけ小夜を振り向いたハジの瞳に安堵の色が宿る。
小夜の胸の奥からはふんわりとした柔らかな愛しい気持ちが込み上げてくる。
 
 
私…。
…私………どうしたら、良いの?
何故だか、鼻の奥がつんと痛い…。
私…こんなにハジの事が好き…。
 
 
□□□
 
 
二月の夜だと言うのに、不思議なほど寒くは感じなかった。
けれど、小夜は労わりの言葉に尚更ぎゅぅっとハジの腕にしがみ付いた。
『寒くはありませんか?』と小夜を気遣ったきり、再びハジは黙り込んで…何やら考え込んでいる。
先程のソロモンとの遣り取りが何か気に入らなかったのだろうか…。
いつもこんな会話だと言っていたけれど、本当はとても仲が悪いのだろうか…。
そして自分は、これ以上何をどうハジに説明すれば良いのか…。
疾しい事など何一つないと言うのに…、言い訳をすればした分だけ怪しまれる事になりはしないだろうか…。
 
そう思い悩むうち、いつの間にかぼんやりとしてしまっていたのだろうか…。
気付くと不意にハジの歩みが止まった。
我に返って小夜が顔を上げるとそこはもう広い庭の突き当たりで、振り返ればあの賑やかな人々の群れが随分と遠くに感じられた。
温かい季節ならばともかく、流石に冬の夜では誰もここまではやって来ない。
ハジはゆっくりと小夜を振り返った。
そして一つ吐息を吐くと、
「…今夜ここへ誘った事で、貴女に嫌な思いをさせてしまいましたか?」
優しい声音でそう尋ねた。
機嫌を悪くしているのかと思っていたハジに逆にそう問われ…小夜は咄嗟にそれが何を指しての言葉なのかが解からなかった。
先程の、ソロモンの事だろうか…?
「…………ううん」
小夜は条件反射の様にそう首を振った…しかしハジの表情は冴えず尚もその瞳は『本当に?』と、小夜を問い質していた。
「…嫌な思いなんて…」
していない…ほんの少し、寂しかっただけだ。
ハジが隣にいないだけで、自分はここに居場所を見つけられなかった。
それはハジのせいではない。
華やかな人々の群れに気圧されて、小夜の心の中に潜むコンプレックスが首をもたげただけだ。
小夜の否定にも、ハジは続けた。
「…今夜、小夜を誘ったのは…ただ純粋に…貴女の喜ぶ顔が見たかったのです。毎日授業とアルバイトの往復で…たまには華やかな席も気が晴れるだろうかと…。それに…折角の土曜の夜だと言うのに…」
ハジの言葉が、優しく小夜の胸に響いた。
ただでさえ…日頃忙しくしているというのに…小夜を一人にしてしまう事を申し訳なく思ってくれていたのだ。
ハジはハジなりに、小夜の事を想ってくれている事は充分に解かっているつもりだった。
「…うん」
「さっき、言っていたでしょう?……場違いな気がしていた、…と」
「…だって、それは…」
ハジに心配を掛けたくなかった。
けれど…どうしてもうまく笑えなくて、小夜は俯いた。
「小夜…?」
「……私、特に美人でもないし…スタイルが良い訳でもないし…。今日は頑張ってお化粧もして貰ったけど…何だか…こんなの…無理に背伸びしてて…自分じゃないみたいだし…。私…」
「……小夜」
「………あのね、ハジが私の事、皆に恋人だって紹介してくれたのが凄く嬉しかったの…。でも…ハジはどこでだって凄く素敵なのに…私はこんなに…子供で…」
こんな冴えない自分が…ハジの隣に並んでいるなんて…。
「小夜…」
ハジは一言だけ、まるで諭すような口調で小夜の名前を呼んだ。
腕にしがみつく小夜の指の力が弱まると、長い腕で引き寄せてくるりと小夜の体を閉じ込める。
「…ハ…ハジ?…」
幾ら庭の外れだとは言え明るい照明の下で抱き合っていたら、きっと会場から自分達に気付く者がいて不思議ではなかった。幾ら恋人として紹介されているとはいえ…人前でこんな風に抱き締められたら…。
小夜は緊張してハジの腕の中でぎゅっと全身を強張らせた。
「………小夜。私が今、そんな事はありません…と言ったところで、貴女の気持ちがすぐに晴れるとは思えませんが…これだけは言わせて下さい。私が愛しているのは他の誰でもない貴女です…それを忘れないで…」
小夜の細い体を強く抱き締めたまま、ハジは一つ一つの言葉をゆっくりと言い聞かせる様に告げた。
「………ハジ」
「………いつもの有りのままの貴女も、背伸びして少し畏まった今の貴女も…どちらの貴女も私にとっては愛しい小夜です」
「ずるい…。そんな風に言わないで…」
 
優しい言葉で…そんな風に言われたら、私…なんて言い返せばいいの?
 
小夜は身じろいだけれど、尚もハジの腕の力は緩む事が無かった。
きつくその胸の中に抱き締められる…親しんだ男の香りがふわりと小夜を包み込む。彼がこれ以上ない程、小夜を大切にしてくれている事が直に伝わる様で…小夜にはそれが嬉しかった。
…けれど、日頃決して雄弁ではない彼が、こんな風に小夜の欲しい時に欲しい言葉をくれる事がまた小夜を不安にもさせているのも事実だ。
いつもは考えない様にしていたけれど…。
ハジは自分よりもずっと大人で、ずっと恋愛に手慣れていて…。
自分にとってはハジが全てだけれど、ハジにとって自分は一体何人目の恋人なのだろう?
こんなに素敵なハジが今までずっと一人だった筈がない。
そんな事を考えてしまうのは馬鹿らしい事なのかも知れなかったけれど…。
全ては自分のヤキモチなのだと解かっているけれど…解かっていても尚その思いを押し留められない程、小夜のハジへの想いは溢れてしまっているのだ。
この間だって、ソロモンは匂わせる様に言っていた。
『何も貴女が特別ではありません…』と。
ハジは誰にでも優しいから…。
小夜はその優しさこそが彼だと思い、そんなハジを愛していると言うのに…。自分の知り得ないハジの過去にまで、彼が恋人に向けたであろうその優しさにまで、自分は嫉妬しているのだ。
「……ハジはいつだって優しいけど…。だから…不安な気持ちにもなるの…」
「…小夜?」
覗き込んでくる青い瞳…。
そんな事を口にしてはいけないと思うのに…一度堰を切った思いは抑えようがなかった。
「だって、私にはハジが…初めての人なのに…。ハジは大人で、何でも慣れてて…今までにもきっと沢山…綺麗な女の人と恋愛してて…。私…」
そこまで口にして、小夜は言葉に詰まった。
問答無用とでも言う様に、ハジの抱擁が一際強さを増したのだ。
ハジの顔は見えなかった。
苦しい程の抱擁に、小夜はそんな馬鹿げたヤキモチを口にしてしまった事を既に後悔していたけれど、一度口にしてしまった言葉を取り消す事は出来ない。それにこの間からずっと小夜の中に燻っていた思いは、小夜の本当の気持ちだった。
ハジにプロポーズして貰ったからと言って、彼にとって自分が特別だなんて信じられなかった。
素敵な結婚式に憧れはしても、とても具体的にそんな自分が想像出来ない。
まだ大学生活が始まって一年にも満たない…一人では何も出来なくて…こんな自分が彼の奥さんとして勤まる筈がないとさえ思ってしまう。
 
こんなに彼の事が好きなのに…。
……自分に自信が無いから?
 
強い抱擁の中で…小夜は自分の中にいつの間にか降り積もっていた不安を初めて確かなものとして自覚していた。
「……他の男とも、付き合ってみたい?」
「っ…そんな訳…ない!私は…」
ハジのあんまりな発想に、小夜は堪らずに反論した。
「…そう言う事じゃなくて…」
自分がそんな事を想う筈ない事は、ハジも解かってくれている筈だった。
違うの…ともう一度…唇を開きかけた時、ハジが小夜を遮った。
「……貴女に結婚して下さいと言ってしまった事を、少し…後悔していました」
 
………………。
……どういう事?
 
ハジの腕の中で、小夜は自分の耳を疑った。
その意味を考えたくなくて、ゆっくりと思考が停止しようとする。
 
何か…私…。
ハジに……嫌われる様な事…した?
それとも、やっぱり…私が子供だから?
ハジの事が好き過ぎて…つまらない事にヤキモチを妬いてしまうから?
 
「…わ、…私…」
声が震えている…。
「小夜…。小夜…きちんと最後まで聞いて下さい…」
「…私…。…あの…」
目を逸らす少女に心を痛めた様子で、しかしハジは言い聞かせる様に強引にその唇を塞いだ。
「……んっ。……ぅ…ふっ」
背中を抱いていた腕が、小夜の髪を梳いて逃れられない様に頭部を固定する。
ハイヒールのお陰でいつもよりは身長の差は縮まっている筈なのに、ぐいと上に引き寄せられると爪先が浮いてしまう。まるでベッドの中の様に濃厚な口付けがハジの想いを物語る様に小夜を翻弄した。
「…小夜」
唇が離れると、ハジの息も僅かに上がっていた。
吐息が重なり合うほど傍で…ハジの青い瞳が苦悩に陰るのを…小夜はぼやけた焦点の向こうで感じていた。
「…小夜。貴女はまだ十八歳で…、親元を離れたばかりで…世間の事も男の事も何も解っていなかった…」
静かなハジの声は、それだけに真実を語る重みを小夜に感じさせる。
ハジに言われるまでも無く、そんな自分の幼さは小夜自身のコンプレックスでもあるのに…。
「……困っている貴女に、私は付け入った様なものでしょう?…小夜は他の男を知らない…」
 
………だから?
…だから?
 
…それのどこがいけないの?
 
そう思うと、小夜の頬をポロリと涙が零れた。
ハジの唇がすかさずその滴を拭った。
 
「泣かないで…」
「だって…。私…そんな事言われたって…」
 
…どうしたら良いの?
 
つま先立ちの小夜の体を、ハジは軽々と支えていた。
潤んだ瞳でじっと愛する男を見上げる。
 
『いつか、結婚して下さい…』
 
確かに彼はそう言ってくれたのに…。
その後、ハジが何も言わなかったのは…ずっと後悔していたからだと言うのだろうか…。
 
そう思うと、小夜の瞳はまるでダムが決壊したように涙が溢れて来るのだった。
ハジは抱き締めていた腕を緩め、そっと小夜の体を地上に下ろすと改めてスーツのポケットから白いハンカチを出すとどこか不器用な手付きでそっと小夜の涙を拭いた。
 
「泣かないで…。小夜は何一つ悪くはありません…」
「…だって。ハジ…後悔してるって…。やっぱり、私が…子供だから…?…私の事、嫌いになったの?」
じっと見上げる円らな黒い瞳に、ハジは屈み込む様にして顔を近付けた。
「……小夜……誤解しないで下さい。……私が愛しているのは貴女一人です、小夜…」

最初に言ったでしょう?

ハジの瞳がそう語りかけている。

「それ…なら………ど…して?」
 
それならどうして、後悔してるなんて…
 
「…貴女はまだ十八歳で……小夜…」
微かにその声が震えている様な気がして、小夜は目を見張った。
 
…ハジも、泣いてる?
 
けれど、じっと見詰めたその青い瞳は潤んではいなかった。
長い指がそっと小夜から再びハンカチを受け取ると、もう一度濡れた小夜の頬を押さえた。
「後悔しているなんて…無神経な言い方をして申し訳ありませんでした。…貴女といつか結婚したい…そう思っている気持に嘘はありません」
「…………………」
「…しかし、小夜はまだ学生でしょう?…私がプロポーズした事で、貴女を必要以上に動揺させてしまった様で…。…ですから、言ったでしょう?…いつか、で良いのです。貴女にとって私は初めての男かも知れませんが、私にとって小夜は最後の女性です。…小夜が良いと思えるまで、私は待ちます。……貴女と出会う以前の事を言われれば、返す言葉もありませんが…」
「…ハジ」
最後は少し苦笑して…長い指がいつもの様に優しく小夜の前髪を整えてくれる。
真っ直ぐに小夜を見詰める空の様な瞳、小夜はしゃくり上げそうになる涙を懸命に堪えてきゅっと唇を噛んだ。
もうチョコレートを渡すどころではなかった。
こんなに泣いてしまって、鏡はないけれどきっとお化粧も崩れてしまっている。
小夜は小さく、ごめんなさい…と謝罪した。

ハジは優しい…。
 
でも…
本当に…それだけ…?
 
やっぱり、本当は後悔しているんじゃないの?
 
けれど、その思いを言葉には出来ないまま…小夜は差し伸べられる指に自ら指を絡めた。
 
 
□□□
 
 
さっぱりと化粧を落とし、小夜は洗面台の鏡に映る自分を見ていた。
帰宅してすぐに着替えたいつもの部屋着、ブローの崩れた髪。
少し疲れている事は否めない…特に美人でもなく、スタイルが良い訳でもない。
それが有りのままの自分…。
小夜は小さな溜息をついて、白いブラウスのボタンを一つ外した。
結局、ハジにはチョコレートを渡せないまま帰宅してしまった。
小夜の心の中にはこんなにもハジへの想いが溢れているのに…、彼のどこか歯切れの悪い態度の前には為す術がなかった。ハジがプロポーズした事を後悔していると言った時、小夜の心臓は止まってしまいそうな程にどきんと大きく鳴って、誤解が解けた筈の今も小夜の胸には裂ける様な痛みが残っていた。
 
明日は折角のバレンタインなのに…。
 
小夜が入浴の為に、二つ目のボタンに指を掛けた時…何の予告も無く不意に背後のドアが開いた。
小夜がいるとは思っていなかった様子のハジが、慌てて謝罪しドアを閉めて出て行こうとする。
「…すみません」
「…待って」
短い謝罪に、小夜は自分でも思いがけずハジを呼び止めていた。
「………。どうしました?」
ハジはそんな小夜の不自然な態度にも表情を変えず、小夜を振り返った。
ハジはいつもと変わらない様に見えた。
「……あ、あの…ハジ?」
呼び止めてどうするつもりなのか…小夜自身にも解からなかった。
「…今夜は疲れたでしょう?」
自分を労わってくれる優しい言葉に、小夜は俯いたまま大きく息を整えた。
ハジの視線が真っ直ぐに自分に注がれている事を感じる。
こんな時、どうしたら良いのだろう…。
ただ自分にあるのは素直にハジを愛しいと思う気持ちだけで…恋愛のれの字も、駆け引きもテクニックも…小夜には解からない。
ただどうしても、この心の中の苦しい思いを少しでもハジに理解して欲しかった。
「どうかしたのですか?小夜…」
「あ…えと…。あの…」
「………………………」
「あの…私…」
しかし今の気持ちをどう言葉にすればいいのかが、小夜には解からない。しどろもどろに言い淀むうち、ハジはゆっくりと覗き込むようにして小夜の前に膝を付いた。
「…小夜」
「や…やだ。…ハジ、止めて…」
 
そんな風に跪かないで…
 
伸ばした細い腕を、ハジは絡め取るようにして引き寄せた。
大きく胸元が開いた脱ぎかけのワイシャツから仄かに漂う男の色気の様なものに堪え切れず、小夜は視線を伏せた。ハジの素肌なら今までに十分見慣れてきたはずなのに…その滑らかな張りのある肌触りも男の匂いも今の小夜には返ってリアルなのだ。
頬が熱い…。
こんな風に覗きこまれたら、尚更話せるものも話せなくなるのだとハジは気付いているのだろうか…。
「小夜……」
ハジは真っ直ぐに小夜を覗き込んで、じっと小夜の次の言葉を待っている。
いつもの様に、気長に根気良く、小夜の話を聞こうとしてくれていた。
小夜は何とか呼吸を整えると、自分の気持ちを少しでも伝えられるようにもう一度ゆっくりと言葉を選び直した。
「…ハジ、私…ハジの事が好きなの。…ハジの言うとおり、私はまだ学生で、結婚なんて正直まだピンとこないけど…でも、ハジがプロポーズしてくれた事、すごく嬉しかった…。……だからね、後悔してるって言われた時…私…」
僅かに声が震えて…思い出すだけでも、胸が凍り付く様な思いがする。
ギュッと握りしめてくれるハジの手の力がぐっと強くなった。
小夜もまた床に膝を付いた。
二人の距離がぐっと狭まる。
「本当に…あんな言い方をしてしまって申し訳ありませんでした」
「……ハジ。…本当に、後悔しているのではないの?」
こんな子供じみた自分に、ハジの様な大人の男性が本気になる筈など無いのかも知れない…一度そんな風に思ってしまうと、不安は次第に明らかな形を取り始める。
小夜の不安げな表情に、ハジは微かに眉を寄せて答えた。
「…小夜が思っている様な意味で言ったのではありませんよ。…そう言う大切な言葉を、誰よりも大切な貴女に告げるのには、少し準備が足りなかったと思ったのです」
 
…私が、大切…?
誰よりも……?
 
……本当に…?
 
ハジは柔らかく微笑んだ。小夜の腕を握っていた指を離し、そっと小夜の目元に伸ばす。
「あの時は突然で……花束を用意していなかったでしょう?」
「…………ハジの、馬鹿…」
 
頬に添えられた綺麗な指に、小夜は恐れる様に掌を重ねた。
青い瞳が泣かないで…と、語り掛ける。
視界がぐにゃりと歪んだ。
小夜の視界を遮る様に、ハジの胸に抱き締められていた。
白いシャツが涙で濡れる。
けれど、もう小夜には逆らう事など出来なかった。
ハジはゆっくりと小夜に告げた。
「本当に、貴女の事になると…私は何も見えなくなってしまう…。小夜はきっと私の事を大人だと思っているのでしょうが、小夜と…考えている事はそれほど違いません…」
「……………………」
小夜がハジの顔を見上げようとすると、ハジの腕は尚更強く小夜を抱き締めて顔が見えない様にその胸の中に閉じ込めた。
「………全てを擲っても構わないと思える程に、…貴女の事を愛していますよ」
ハジの胸に強く耳を押し当てて、小夜はその告白を聞いた。
 
…愛していますよ
 
これまでに数え切れないほど告げられたその言葉の意味を、小夜は改めて噛み締めていた。
 
「……ハジ。お願い…もう一度聞かせて……」
大きな掌が、小夜の髪を繰り返し撫でている。
ハジの胸が大きく何度か揺れた。
抱き締められて、体全体で感じるその優しい響き。
 
不思議…
 
先程まで、あんなに痛んでいた胸が今はほんのりと甘い…。
自分は、どうしてこんなに単純に出来ているのだろう…。
 
ハジがどんな表情をしているのか知りたくて…何とか男の腕をすり抜けて小夜が顔を上げると、ハジは静かに小夜を見降ろしていた。
その表情は少し困った様でもあり、恥かしげにも見える。
「…ハジ」
「………どうしても、確かなものを欲しがってしまうのは、私の悪い癖です……」
 
それはどういう意味だろう…。
 
明らかな疑問が小夜の表情に浮かんだのだろう…。
ハジは、いつかお話します…とだけ付け加えた。
 
また…いつか…なの?
 
小夜が尚も問い掛けようとする、その柔らかな唇にちょんと人差し指を触れて、ハジが思いがけずあの男の名前を口に出した。
 
「それから。…小夜、ソロモンの言う事を一々真に受けてはいけませんよ。…気にしていたのでしょう?」
小夜の脳裏に、あの柔らかく調子のいい口調が蘇った。
不安が消えれば、それは小夜にとって疾しい事でも何でもないように思え、小夜はハジに何故?と問い掛ける。
「…彼は少し、女性に対して軽いところはありますが…仕事の上では信頼のおけるパートナーだと思っています。彼はいつもあんな調子ですから、貴女が気にしなければ何事でもありません」
本当に、何事でもない様子でハジが説明する。
「………うん」
本当にそうだろうか…今までの度重なる偶然の出会いに一抹の不安を残しながらも、小夜は曖昧に頷いた。
どちらにしても今の小夜にとっては、ハジ以外は眼中に映らないのだ。
 
ハジの唇がそっと、小夜の額を啄ばんだ。
くすぐったい…。
額に、瞼に…そして頬…やがて唇に…。
そっと優しいキスが繰り返される。
 
男の腕の中で小夜がほっと甘い吐息を零す頃、ハジが唐突に問い掛けた。
その表情は、小夜をからかう様に笑っている。

「…そう言えば、小夜から何か頂けるのではありませんか?…実は密かに楽しみにしていたのですが…」


小夜は、はっと我に帰る。
 
…チョコレート!
そう言えば、まだバッグの中に入れたままだ…。
 
しかし、取りに行こうにもハジの腕はまるで意地悪するかのように力の緩む気配を見せない。
「あ、あのね。ハジ…私…」
青い瞳が優しく緩む。
言い募る少女の耳元に、男は甘く…あざとく囁いた。
「今は別のものが欲しいのです…」
ハジが、小夜を伺う様に笑っている。
長い指先がするりと小夜の背を撫でて下ってゆく。
 
ごくん…
 
思わず小夜の喉が鳴る。
小夜は大きな瞳を、更に大きく見開いたのだった。

                               ≪了≫

20100301
ブログに取り敢えず載っけた後篇です。
小夜たんより、ぶっちゃけハジの方がヤキモチ妬きです。
しかし、彼は自分の手の内はあまり見せたがらず…凄く苦労したのですが、
あまり伝わらないかもしれない…。
色々と反省中。こうして自分なりに反省して課題を見付ける事が大切な筈…。
でも何とか、2月中に終わる事が出来たので、また3月は違う話を書こうと言う気が出てきました。
3月と言えば、ホワイトデーなんですけどね…今度はもう少しコンパクトにまとめられたら良いな…と思います。
それではここまで読んで下さいましてどうもありがとうございました!